2015年12月24日木曜日

不耕起と市民性形成―自然農入門体験記(15)


長野県富士見町の八ヶ岳自然生活学校で自然農について学びはじめ、自宅の裏庭で見様見真似の自然農を始めたのは、この3月からのことだ。
自然農から学ぶことはたくさんあるが、その中で一番大きな収穫は、不耕起という考え方だろう。
不耕起とは、土地を耕さないという思想である。なぜなら、土の中は、多くの微生物をはじめたくさんの動植物が棲んでいる生物多様性の世界だ。だから、この生命体の活動を尊重し、できるだけ土地を耕さない、つまり鍬を入れないということだ。もちろん、耕運機などは全く使わない。
鍬を入れると、まして大型機械を入れたりすると、多様な生命体が一度で破壊されてしまう。
それでは、土が固くて種が蒔けないと心配する人もいるだろうが、実際のところ、耕されない土地は、本当にふかふかなのだ。これは、自然農をやってみて実感したこと、森の中の土がふかふかであるように。
こうしてみると、微生物をはじめとする、さまざまな動植物の力によって土がいつのまにか豊かになり、自然の環境生態系を創りあげているということにあまりにも無知だったことに気づく。
その結果、自然農の野菜は、その微生物の力を得て、とびぬけて元気だ。病虫害を心配する向きもあるが、野菜そのものに自己免疫力というか、元気そのものがなくなると、自然に枯れていくから不思議である。
不耕起の原則のうえに、雑草と虫を敵としない、無肥料・無水ということが挙げられるが、それらはいずれも環境生態系の保持のもとでの方法だ。

このような自然農の経験をすると、つまりは、生物多様性のなかで、この地球に生きる人間として、どのような地球であってほしいか、そのために個人として何ができるのかという課題が見えてくることに気づく。たとえば、現代の教育がいかに本来の個人の力を育てない方向で動いているかが気になってくる。それは、過保護であり、栄養過多であり、いらざるお節介の末の姿である。

だからこそ、この世界で、一人の市民として生きていくための、基本的なあり方とは何かを考えるとき、自然農と市民性形成の思想とはとても共通するものが多いことがわかる。

それは、あえて言えば、市民社会における個人の言語生活の充実ということであろうか。
毎日の生活の中で、いろいろな他者との出会いの中で、私はどのような言語活動を行っているだろうか。家族、地域、仕事、それぞれの場面の中で、自分の言語生活をどのように振りかえることができるか。

私は、自分の興味・関心事をどのようにして他者に伝えているか。
他者は、そのような私の話をどのように受け止めているか。
また、他者の話は私にとってどんな意味があるか。
私と他者の間に、共通の話題として何があるのか。

このような他者と私をとり包む社会は、どのような社会であるべきなのか。
私にとっての、この旧くて新しいテーマは、自然農の経験を経て、ますます強くなってきた、というか、本来の目的をめざして強く動き出したといっていい。
言語教育は何のためにあるのかという、大きな課題も、この目的の中でしだいに見えてきたものである。
自己、他者、社会という3つの要素がからみあって成り立つ対話の世界、この不思議な魅力をどのようにして個人の言語生活の中で活性化させていくことができるのか。そして、そのことは、人間にとってどのような意味を持つのか。
ことばの市民として生きるとは、こうした課題を背負うことでもある。