2015年9月23日水曜日

亡骸の層-自然農入門体験記(11)

この春から始めた自然農のついて、10回ほどの連載を重ねてきた。
http://hosokawa.at.webry.info/

自然農の始まりは、八ヶ岳自然生活学校の野菜塾である。
http://shizenseikatsu.server-queen.com/about.html

ここにほぼ毎月通いつつ、春蒔きでは、人参、ごぼう、いんげん、トマト、きゅうりなどを、秋蒔きでは、人参、ごぼう、大根、カブなど、それに葉ものの小松菜、ほうれん草、冬菜などである。
9月中旬の段階で、人参、大根、カブはもう芽を出し、おろ抜きもそろそろ始まっている。
自然農では、土を耕さず、虫と草を敵とせず、肥料や水をやらない。
この自然農にかかわるようになってから、今までの、自分の中の農に対する常識が見事に覆された。
そして改めて考えてみると、そのことが、自分の職業としてきた教育の問題とも深く関わっている。
このブログでは、そういう僕自身の変容も含めて、自然農と人間の形成の問題にも触れていこうと思っている。

さて、自然農の特徴は、今示したようなところにあるのだが、土地を耕さないということに関連して、決して土を裸にしないとう原則がある。
いままで、美しい畑というのは、きれいに筋目のついた、黒土をイメージしていた。
ちょうど刷毛で掃いたような畑こそ、良質の作物の取れる場所であると勝手に考えていたのである。
ところが、自然農では、決して土を裸にせず、必ず枯れ草の類で土を覆うことを原則にしている。
この結果、土の表面は基本的に乾くことはなく、さまざまな微生物が、土の中に繁殖することになる。
その枯れ草を持ち上げてみると、いろいろな虫の死骸などが白くなって層になっている。
これを自然農では、亡骸(なきがら)の層という。
この亡骸の層の存在によって、土はより豊かになり、さまざまな微生物とともに、自然の野菜をつくる基盤を形成するのだ。
だから、自然農の畑は、一面、枯れ草に覆われているように見える。
これを今までの常識で固まった目で見ると、はじめは本当に信じられない。
そのような常識を根底から覆してくれたのが、この亡骸の層である。

これまでの農では、すべて開墾・耕作し、土を掘り返してしまうために、地中のさまざまな生物が皆死んでしまった。そのために肥料をやり、乾いた土地に水を定期的にまくことになった。
これは人間が土地をすべて支配し、自分の好きなように土地を変えるということでもあった。それはちょうど家を建設する行為によく似ている。人が住むためにコンクリートの基礎を作り、地面とは接しない空間を作り上げたのと同じように。
その結果、土地は本来の土地の意味を失い、作物の画一大量生産のためにだけあるように変えられてしまった。
自然農がめざしているもの、それは究極的には、人間と自然の一体化なのだろうと思う。
では、なぜ人間は、作物を得るために土地を耕すようになったのか。
亡骸の層の存在は、こうしたことを考えるためのとても意味深い課題であることを示唆している。